外国人として生活することとは

外国人として生活すること ドイツ生活

ドイツに暮らし始めて4度目の冬が来た。海外で外国人として生活するとは、どういうことだろうか。自分の母国から離れて異国で暮らすことについて思うことを綴ってみる。

毎日が言葉との戦い

日本で生活していた頃は日常が当たり前のように日本語で埋め尽くされていた。

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疲れ様です

おはようございます

今週の金曜日の不燃物回収についてのお知らせです

まもなく電車が参ります

ドアが閉まります

「今度の演奏会、小ホールでするみたい」「えっそうなの」

お十夜の季節がやってきました

○○懇談会のお知らせ

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生活すること、生きるということは、言葉を使うということ。

言葉が生きていく上でいかに必要不可欠なものであるのか、日本にいた頃はあまり意識したことがなかった。言葉とは、人と人が関わり合う上で欠かせないもの。

宅配便を受け取るとき

パン屋さんでパンを買うとき

大学からのメールを確認するとき

病院で受付を済ませるとき

日常で起こる全ての場面で言葉が登場する。

ずっと自分の母国で暮らしているとそれが当たり前になりすぎて気が付かなかったけれど、ドイツで暮らし始めて初めて「今までこんなに言葉でコミュニケーションを取っていたのか」と言葉のもつ影響力に圧倒された。

と同時に、絶望した。

何をするにも言葉の壁がネックになる。

留学して間もない頃は、精神状態は大人なのに語学力の部分だけ急に幼い子供にされてしまったような感覚になった。

「日本語だったらちゃんと言えるのに・できたのに」と思う毎日。

ドイツで暮らす年数が高くなり私の語学力が少しずつ上達していくに従ってそう感じることも徐々に減ってきたけれど、それでも毎日が言葉との戦いだ。

語学は今日明日にマスターできるものではないので、地道に一歩一歩歩んでいくしかない。

道のりは遠いけれど、これからも頑張ろう。

日本人としての意識の高まり

自分のアイデンティティーをより意識するようになること。

これは、特に母国とは全くかけ離れた文化を持つ国に暮らす場合に生じることではないか、と思う。

例えば日本とドイツ。大きくみると、アジアとヨーロッパ。

日本にいた頃は周りの多くの人が日本人で自分も日本人で、そのことに疑問を持つことがなかった。

それが、ドイツに来てから自分が何人で何者なのかということを強く意識するようになった。

だって誰も私のことを初見では日本人だと思わないのだもの。日本人ではなく、アジア人。日本にいた時には考えられないくらい大きなまとまりで自分を判断される。

初めて会った人に「あなたはどこから来たのか。中国か、韓国か」と聞かれ、その度に「いいえ、私は日本から来た日本人です」と主張する機会を何度も経験するうちに「そうだよね、私は日本から来た日本人なんだよね」と自分でも日本人としての自分をより強く認識するようになる。

日本人の私にとっては日本は私の生まれ育った思い入れのある国だけれど、他の国の人から見れば数ある多くの国のうちの一つに過ぎない。

日本とは、どのような国でどのような文化や歴史があるのか?

自分の母国について相手に知ってもらうには、まず自分自身がそれについて良く知る必要がある。そしてそれは自分のアイデンティティーについて向きあい、見つめなおすことでもあるのだ。

家族や友人との別れ

海外で暮らしていると、国にもよるけれどそう頻繁に帰省することは難しい。何といっても飛行機代が高いからだ。途中で飛行機の乗換があってどこかで一泊しなければいけなくなった時などにはホテル代も追加されるなど、国をまたぐ移動はとにかくお金がかさむ。

そういう訳で、地元に帰って家族に会ったり友人たちと一緒にお茶を楽しむことは頻繁には出来なくなる。

インターネットの普及している今日遠く離れていても連絡ができる有難い時代だけれど、それでも遠いことには変わりない。それに日本とドイツでは時差が7-8時間あるので、起きているタイミングも異なる。

普段は家族に会えなくて寂しいな、とか辛いな、とか思うことは余りないのだけれど、誕生日やお正月など大切な日を一緒にお祝いできない時は「今一緒にいられたら良かったのに、、」と思ってしまう。また、家族の体調が悪いときに傍にいて様子を見てあげられない時も胸がキン、と痛む。高齢になった実家の犬にも残り何度会えるか分からない。

大切な人たちがずっと元気でいてくれるとは限らないからこそ、離れている時にはしっかり連絡を取り合って、会えた時にはその時間をできる限り楽しみたい。

磨かれる人間観察力?

外国人として暮らすことは容易なことではない。

何が難しい?と考えた時に一番先に挙がるのはやっぱり言葉の壁だと思うけれど、言葉の壁を感じなくなったとしても変えられないものもある。

それは、自分のアジア人としての外見。

例えばアジア人とヨーロッパ人では外見が異なるので、何十年暮らしていたとしても見た目はアジア人のままだ。

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コロナがドイツに広がってまだ数か月しか経っていなかった頃、駅で通りすがりの男性にいきなり大声で「コロナウイルス!」と暴言を吐かれたことがある。その人は私を見て笑っていた。

それは余りにも急な出来事だったので、一瞬身体が固まってしまった。と同時にナイフで胸を刺されたみたいなズキッとした痛みが襲ってきた。

男性が過ぎ去った後で周りの人は何事もなかったように歩いていて、私だけがそこに取り残されたような感覚になった。

またはスーパーで、前のお客さんとは仲良く会話をしていたのに私の番になった途端に無口になってこちらが挨拶しているのに黙ったままだったり、目を合わされなかったり、急に除菌スプレーで掃除を始めたり、分かりやすく咳払いをされたり。

例え大学内の教授でも(その教授のセミナーでは私以外全員ドイツ人だったのだけど)私と全く目を合わせようとせずに最初から私の話を聞こうという気がないのが全面に出ているような人もいたから驚いてしまう。

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そんな風に極たまに、でも直接的に「こいつはアジア人だから何してもいいだろ」みたいな態度を取られることがある。

同じドイツ人に対しては決してしないであろう態度を自分に対してとられた時、「ああこの人は元々こういう意地悪な部分がある人なんだろうな」と考える。

上に挙げたケースではその人の本性が分かりやすく表に出ただけで、見た目の異なる外国人に優しくできない人はきっとどんな人に対しても同じだろう、と思うからだ。

逆に「この人はどうしてこんなに優しくしてくれるんだろう?」と思うほど親切な人もいる。

私が家を留守にしている間にお隣のお店に荷物が預けられたため(ドイツではよくある)それを受け取りに行った時、お店のご主人が出てきて優しい笑顔で「もちろんいいのよ~(荷物の配達先としてお店を)いつでも使ってくれて大丈夫よ!」と言ってくれた時は本当に心がぽかぽかしてきた。

または、電車が2時間遅延していた時横で一緒に待っていた女性に別れ際「あそこのカフェだったらまだ空いてると思うから、外はすごく寒いし入れそうなら入って待ってたら?」「気を付けて帰ってね」と声をかけてもらったり、全く見知らぬ人とベンチで一緒になって「留学生活は大変だと思うけど、頑張って。応援してるよ!」と励まされたり。

そんな優しいお人柄の人に出会えた日は「辛いこともあるけど頑張ろう!」という気持ちが湧いてくる。

それにしても世の中には本当に色々な人がいる。もちろん、どこの国で暮らしたとしても良い人と悪い人がいるのだけれど、外国人として生活していると自分に対してその人自身の本当の性格で接されることが多いから、日本で暮らしていた時よりも相手の人間性が分かりやすく伝わってくるなと思うこの頃である。

世界中の国々への意識の高まり

何かが起こった時に、誰もが同じように物事を捉えるとは限らない。それは国という大きなまとまりになっても同じだ。国が違えば捉え方も異なってくる。日本に住んでいた時は日本側からの視点で報じられたニュースしか知らなかった。時々「海外ではこう報じられている」というようなニュースが流れたこともあったけれど、ちらりと通り過ぎる程度のもの。

それが、ドイツに留学してからドイツ側から捉えられたニュースも見られるようになった。何か世界中で話題になっているものがあって、それについて大学で教授と他の学生たちが話しているのを聞いたり友達と話して、それから日本の家族とも電話すると、直に国同士の捉え方の違いや世間の反応の違いを感じることができる。日本からでもドイツの新聞は読めたりするけど、実際に現地の皆さんと話すことはなかなか難しいから、これは留学の特権ではないだろうか。

それから留学していると、より多くの国々に対する情報が入ってくる。

例えば日本に住んでいた時は日本の周りの国々のことが多く取り上げられていた印象だったけれど、ドイツに来てからはドイツとその周りの国々のことも多くニュースに取り上げられるので、入ってくる情報が倍に増えた感じだ。

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それから、ドイツに留学してから世界地図に目を通す回数が増えた。

私が通っている音大へは世界40ヵ国以上から学生たちが集まっている。ドイツ人よりもドイツ以外から来た学生の方が多い授業もあったりして、インターナショナルな大学だ。

そんな時、例えばドイツ人以外の人と何かの合わせで一緒になって「どこから来たの?」という自己紹介の場面で万が一にも「あれ、そんな名前の国あったっけ。。」ということがあっては大変失礼である。

日本にいた頃は、世界史の授業で定期テスト用にとりあえずザーっとした世界史の流れと国名を無理やり頭に詰め込むというような感じだった。それがドイツに留学して実際に○○国の人と何かを一緒にする、という機会が増えると「相手の国を知らないとその人に失礼になってしまう!」と世界の国々の歴史や文化を学ぶモチベーションがぐんと上がるようになった。

もし今中学や高校の世界史の授業に戻れるなら、今だったらもっと興味を持って「あっここはあの子の出身国だ!」というように思い出したりしながら参加できるのにな~と思う。

そうは言っても世界史の授業は昔から好きだった。

あの時教科書に出てきて眺めていたドイツに今、留学しているのは何だか不思議な感じだ。まさか自分が留学することになるとは夢にも思っていなかったので。